New Testament in a Year
22 私たちは、自然界もこのすばらしい日を待ち望みながら、苦しみうめいていることを知っています。 23 そればかりか、私たちクリスチャンでさえ、御霊を自分のうちにいただいて、将来の栄光を先取りしているにもかかわらず、罪からの完全な解放を待ち望んでうめいています。その日には、神が約束してくださった新しい体、すなわち、もはや苦しみも死もない体をいただくのです。 24 私たちは、このように信じて待ち望むことで救われています。信じて待ち望むとは、今は持っていなくても、やがて与えられると確信して待つことです。すでに持っていると思う人は、神が与えてくださると期待したり、信じて待ち望んだりはしません。 25 しかし、まだ起こっていないことを待たなければならないのなら、忍耐をもって、確信して待ち望むのです。
26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどのように祈ったらよいかさえわからないのですが、御霊は、ことばに表せないほどの深い同情と理解をもって、とりなしてくださるのです。 27 すべての人の心を知っておられる父なる神は、御霊が私たちのために、神ご自身のお心にかなう願いをささげてくださる時、その願いの意図をもちろん知っておられます。
28 私たちは、神を愛し神のご計画のうちを歩んでいる人のためには、その身に起こることはすべて、神が益としてくださることを知っているのです。 29 というのは、神はあらかじめ、ご自分のもとに来る人を知っていて、そのような人々がご自分の御子と同じになるように、最初から定めておられたからです。それは、御子イエスを多くの主を信じる者たちの長子とするためでした。 30 神はあらかじめ選んだ人々を招き、そして彼らの罪を赦し、義(正しい者)と認められた人々には、さらに栄光を与えると約束してくださいました。
神が私たちの味方
31 こんなにすばらしい恵みに対して、いったい何と言ったらよいでしょう。神が味方なら、だれが私たちに敵対できるでしょうか。 32 神は私たちすべてのために、たった一人の御子さえ惜しまずに、死に渡されたほどのお方ですから、ほかのすべてのものをも下さらないわけがあるでしょうか。 33 神がご自分のものとして選ばれた私たちを訴えるのはだれですか。神ですか。とんでもない。神は私たちを赦し、義としてくださった方ではありませんか。 34 では、私たちを罪に定めるのはだれですか。キリストですか。とんでもない。キリストは私たちのために死に、復活し、今は神の右の座で、私たちのために祈っていてくださるお方ではありませんか。 35 では、いったいだれが、私たちをキリストの愛から引き離すことができるのでしょうか。災難や苦しみ、迫害ですか。飢えや貧乏、あるいは危険や剣ですか。 36 聖書にこう書いてあるとおりです。
「神のためには、いつでも
死ねる心がまえでいなければならない。
私たちは殺されるのを待つ羊のようだ。」(詩篇44・22)
37 しかし、こうした中にあっても私たちは、いのちを投げ出してまで私たちを愛してくださったキリストによって、圧倒的な罪からの勝利を得るのです。 38 神の愛から私たちを引き離すことができるものは何一つない、と確信しています。死もいのちも、そんなことはできません。天使にもできません。地獄の全勢力が結集しても、神の愛から私たちを遠ざけることはできません。恐れも、不安も同様です。 39 あるいは、私たちが空高くのぼっても、海の底深くもぐっても、どこにいようと、神の愛から私たちを引き離すことはできません。
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