Revised Common Lectionary (Semicontinuous)
5 私たちのメッセージは、「私たち」ではない。私たちのメッセージは、「王であるイエス・キリスト」だ。そして、私たちはイエスのために人生を捧げてあなた達に仕える者なんだ。 6 「光よ、闇より輝き出ろ!」——【創世記1:3より引用】と命じた神が、私たちの心を彼の光で照らし、彼自身の栄光が救い主の顔に輝いていることでこの目を開かせてくれた。
7 しかし、私たちはその宝を入れてもらった陶器にしか過ぎない。それが何を示しているかというと、超自然的な力が、私たちからではなく、神から来ているということを明らかにしてくれる。 8 私たちは全ての方向から圧迫され問題を抱えているが、砕け散ることはない。絶望的な状況においても希望を見出す。 9 いくら神から引きはがそうと攻撃されても、神が私たちを見捨てない。ノックダウンされることがあっても、ノックアウトはされていない。 10 こうやってイエスの死をこの体で背負っているのは、イエスのいのちがこの体を通して明らかにされるためなんだ。 11 生きている限り、私たちは常に死と隣り合わせだ。だが、それはイエスのいのちが、私たちの死にゆく体を通して現わされるためなんだ。 12 だから、私たちに対する死の働きさえも、結果的に、あなた達の中でいのちの働きとなっている。
休日の王であるイエス
(マタイ12:1-8; ルカ6:1-5)
23 ある休日に、イエスと弟子たちは穀物が植えられた畑を歩いていた。弟子たちは歩きながら、いくつかの穂を採って食べていたのだ。 24 するとパリサイ派はイエスに言った。「イエス先生、あなたのお弟子さんですが、麦の穂を摘んでおりますよ。なぜ彼らは休日にも関わらず、私たちの掟で許されていないこのようなことをしているのですか?」
25 イエスは彼らに答えた。「聖書を読んでいるなら知っているだろうが、ダビデとその弟子たちの食糧が尽きて、お腹が減った時、ダビデが何をしたか覚えているか? 26 アビヤタルが大祭司だったころ、ダビデは神殿に行き、神に捧げられているパンを食べた。掟だと、捧げものを食べることを許されているのは祭司だけだったにもかかわらずだ。さらに、ダビデは捧げものであるパンを弟子たちにも分け与えたじゃないか!」
27 その後イエスがパリサイ派に言った。「休日は、人々の必要に仕えるために作られたのであって、人々が休日を仕えるためにつくられた訳じゃない! 28 これは、人の子も休日の王であることを意味するのだ」
休日に男を癒すイエス
(マタイ12:9-14; ルカ6:6-11)
3 イエスがまたユダヤ集会所に行くと、そこには片手が麻痺している男がいた。 2 イエスを訴える理由を探している人たちは、イエスの言動をしっかりと見ていた。彼らは休日にイエスが男を癒すのかどうかを見逃さずに目を見開いていたのだ。 3 イエスは手が麻痺した男に言った。「みんなが見えるところに立ってくれ!」
4 そこでイエスは彼らに聞いた。「休日の日に掟が許している行いはなんだい?良いことをすることか?または悪いことをすることか?正しいのは命を救うことか、それとも見殺しにすることか?」しかし、それに対して誰も何も言わなかった。
5 イエスは人々の方を向いた。彼は怒りを抱いていたが、一方で大きな悲しみを感じていた。なぜなら、彼らは心を固く閉ざしてしまっていたからだ。イエスはその男に言った。「手を伸ばして!」男が手を伸ばすと、その手は癒された! 6 その後、パリサイ派たちはその場を去り、ヘロデ党の人々と会ってイエスを殺害する計画を練り始めた。
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