Old/New Testament
イエス・キリスト、真の犠牲
10 モーセの律法では将来に良いことが訪れるという光景もぼんやりとしたものでしかなかった。その掟は全てのものを完璧に描写するものではなかったのだ。モーセの律法では毎年、同じ生贄を捧げるように教え、彼らは神に礼拝するためにその行為を毎年続けたのだ。しかし、掟は決して人を完璧にするものではなかった。 2 もし仮に掟が人間を完全な者にしてくれるのであれば、人々は過ちから既に清められ、罪悪感に押しつぶされることなく毎年同じように決まった生贄を捧げる必要はないはずだ。 3 しかし、そんなことは起きなかった。動物の生贄では毎年ただ人間に過ちを思い起こさせるだけであり、 4 牛やヤギの血では罪や過ちを取り除くことは出来ないのだ。
5 だからこそ、キリストがこの地上に来て、神にこう言った。
「あなたは生贄も供え物も実際そんなに欲しくなかった。
しかし、わたしのために身体を用意してくれた。
6 あなたは全焼の生贄や過ちを取り除く犠牲では満足しなかった。
7 だから、わたしはこう言った。
『神よ!わたしはここにいます。
律法の書にわたしについて書かれています。
わたしはあなたが望んでいることをするために来たのです』」——【詩篇40:6-8より引用】
8 一番最初にキリストは「あなたは全焼の生贄も供え物も実際そんなに欲しくなかった。あなたは全焼の生贄や過ちを取り除く犠牲では満足しなかった」(これらの犠牲は全て律法に書かれた指示通り行われた) 9 その後、キリストはこう言った。「神よ!わたしはここにいます。わたしはあなたが望んでいることをするために来たのです」。要するに、神は最初の(古い)生贄のやり方に終わりを与え、新しい方法が始まったということを意味させたのだ。 10 イエス・キリストは神が望む通り、すなわちキリストの身体を犠牲にすることで私たち人間が聖なる者となることを許されたのだ。キリストが一度犠牲となった。それで全て十分なのだ。
11 毎日、祭司たちは決まりきった同じ作業、宗教的な儀式を繰り返し行ってきた。来る日も、来る日も、人間の過ちを取り除くことのできない生贄を何度も神に捧げていたのだ。 12 しかし、キリストは一度だけ罪のために犠牲となったのだ。そして、その犠牲はそれ以降ずっと効力を持っている。こうしてキリストは神の右の座に座っている。 13 いまキリストはその場所で、自分の敵がイエスの足の踏み台となるようにと待っているのだ。 14 キリストが行った一度の犠牲によって、イエスの人々を永久に完全な聖なる人々としてくれたのだ。
15 聖霊はまた私たちに次のことを言ってくれた。
最初に・・・
16 「これは新しい契約だ!
この契約はわたしとこれから来るわたしの国民との間で結ばれる・・・と神は言う。
わたしは、わたしの律法を彼らの頭に置き、彼らの心に刻む」——【エレミヤ書31:33より引用】
17 続けてこう言う・・・
「わたしは彼らがおかした過ちを忘れよう!
彼らがおかした悪を絶対に、再び思い出すことはしない!」——【エレミヤ書31:34より引用】
18 全てを水に流された後、再び犠牲を払い、過ちを取り除くことはしなくても良いということだ。
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