Beginning
4 しかし、次の点に心をとめてください。ある父親が、小さな子どもに莫大な財産を残して死んだとします。その場合、相続人である子どもは父の全財産の持ち主ではあっても、大きくなるまで、奴隷とほとんど変わらない立場にあります。 2 つまり、父の定めた年齢に達するまでは、後見人や管理者に従う義務があるのです。
律法から自由に
3 キリストが来られるまでは、私たちもそれとよく似た立場にありました。ユダヤ教の戒律や規則によって救われると考えて、その奴隷となっていたのです。 4 しかし、定めの時が来ると、神様は自分のひとり子を、一人の女から生まれさせ、ユダヤ人として律法の下にお遣わしになりました。 5 それは、律法の奴隷になっていた私たちを買い戻して自由の身とするためであり、神の子どもとして迎えてくださるためなのです。 6 このように神様は、私たちの心に、神の子の御霊を送ってくださいました。それで今、私たちは神の子どもとして、神を「お父さん」とお呼びできるのです。 7 あなたがたも私たちも、もはや奴隷ではありません。神の子どもなのです。子どもであるからには、神の持っておられるものはすべて私たちのものです。それが神のご計画だからです。
8 ガラテヤの人たち。あなたがた外国人は、神を知らなかった時、実際には存在しない「神々」と呼ばれているものの奴隷でした。 9 ところが今は、神を知っているのに〔というより、むしろ神に知られているのに〕、どうして、もとの状態に逆戻りしたがるのですか。あの貧弱で、無力で、役立たずの教えの奴隷に逆戻りしようとするのですか。 10 あなたがたは、ある特定の日や月や季節や年についての定めを守り、それで神を喜ばせようとしています。 11 そんなあなたがたが、気がかりでなりません。私があれほど、あなたがたのために一生懸命尽くしてきたのは、全部むだだったのでしょうか。
パウロの嘆き
12 愛する皆さん。この点について、どうか私と同じ考えでいてください。私が初めて福音を伝えた時、あなたがたは私を軽蔑したりはしませんでした。 13 福音を伝えるきっかけとなったのは、私が病気になったためで、 14 その病気は人に不快感を与えるものであったにもかかわらず、あなたがたは、私を拒んだり、追い返したりしませんでした。それどころか、まるで天使かキリスト・イエスであるかのように迎え入れ、気づかってくれました。 15 あの時、お互いに味わった幸福感はどこに行ってしまったのでしょう。あなたがたは、私を助けるためなら、自分の目をえぐり出してもかまわないとさえ思ってくれたではありませんか。 16 それが今、真理を告げたために、私はあなたがたを敵に回したのでしょうか。 17 一生懸命あなたがたに取り入っている偽教師たちは、ほんとうに、あなたがたのためを思っているのではありません。ただ、もっと自分たちの取り巻きをふやすために、私たちから人々を引き離そうとしているだけです。 18 正しい動機と真実な心から親切にするなら、何も文句はありません。私がその場にいる時だけでなく、いない時にも、そんな態度を示してくれるなら、なおさらすばらしいことですから。
19 ああ、私の子どもたち。私はどんなに心配していることか。あなたがたがキリストに完全に支配される時をひたすら待ちながら、生まれて来る子どもを待つ母親のような苦しみを、もう一度味わっているのです。 20 今あなたがたのそばにいられたら、そして、こんな言い方をしなくてすんだらと、どんなにか願っています。これほど離れていては、正直言って、なすすべがないといった感じです。
21 律法を守らなければ救われない、と考えている皆さん。私のことばに耳を傾けてください。どうして律法のほんとうの意義を理解しないのですか。 22 アブラハムには二人の子どもがあって、一人は奴隷である妻から生まれ、もう一人は自由人である妻から生まれたと書いてあります。 23 奴隷である妻の子どもの誕生については、取り立てて変わった点はありませんでした。しかし自由人である妻の子どもの場合は、まずその誕生に関して、特別な神の約束が先行し、それから生まれたのです。
24-25 このことは、神様が人間を助けるために開かれた二つの道を示しています。一つは、律法を示して、それを守るようにとお命じになった道です。神様は、シナイ山でこの道をお示しになりました。その時、モーセに「十戒」をお与えになったのです。アラビヤ人はこのシナイ山を、「ハガル山」と呼んでいます。ここでアブラハムの奴隷である妻ハガルは、戒めに従うことによって神に喜ばれようとする生き方の象徴、ユダヤ人の母なる都エルサレムを表しています。そして、この生き方に従うユダヤ人は、すべてハガルが産んだ奴隷の子どもなのです。 26 しかし、私たちの母なる都は天にあるエルサレムで、それは律法に属していません。 27 イザヤの次の預言は、このことを言おうとしたのです。
「喜べ、子のいない女よ。
喜びの声をあげよ、子を産んだことのない女よ。
あなたに多くの子を、
女奴隷の子より多くを授けよう。」(イザヤ54・1)
28 愛する皆さん。あなたがたも私も、イサクと同じ、神の約束に基づく子どもです。 29 約束の子イサクは、奴隷である妻の子イシュマエルにいじめられました。とすれば、聖霊によって生まれた私たちが、律法を守るように強要する人々から迫害されるのもうなずけます。
30 しかし聖書には、神様がアブラハムにこう言われたと記されています。「奴隷である妻と子どもを追い出せ。その女の子どもは、自由人である妻の子どもといっしょに、アブラハムの跡継ぎにはなれない。」(創世21・10、12) 31 愛する皆さん。私たちは、律法に縛られた奴隷の子どもではありません。信仰によって神に受け入れられる、自由の女の子どもです。
キリストによる自由
5 このように、キリストは私たちを自由の身にしてくださいました。ですから、この自由をしっかりと握っていなさい。もう二度と、律法にがんじがらめになった奴隷とならないよう、細心の注意をはらいなさい。
2 よく聞いてください。これは大切なことなのですから。もしあなたがたが、神の前で正しい者と認められるには、割礼を受け、ユダヤ教のおきてを守りさえすればいいと考えているなら、キリストに救っていただくことはあきらめなさい。 3 もう一度言います。割礼を受けることで神の恵みを手に入れるつもりなら、それ以外の律法も完璧に守るべきです。そうしなければ、死あるのみです。 4 もしあなたがたが、律法によって神への負債を帳消しにするつもりなら、キリストはあなたがたにとって全く無意味な存在です。あなたがたは、神の恵みからすべり落ちてしまったのです。 5 しかし私たちは、キリストの死によってこそ、罪が取り除かれ、神の前で正しい者と認められることを、聖霊の助けによって確信しています。 6 キリストから永遠のいのちをいただいた私たちは、割礼を受けたかどうか、ユダヤ教の儀式を守っているかどうか、心配する必要はありません。私たちに必要なのは、愛によって働く信仰だけです。
7 皆さんは、信仰の道を順調に走っていました。それを妨害したのはだれですか。真理に逆らわせたのはだれですか。 8 もちろん、神のはずはありません。あなたがたをキリストに基づく自由へと招いてくださったのは神なのですから。 9 しかし、あなたがたの中に悪い人が一人でもいるなら、その悪影響は全体に及ぶのです。 10 主はこの点について、あなたがたを私と同じ信仰に立ち返らせてくださるものと確信しています。人を惑わし、かき乱す者には、だれであろうと、神のさばきが下るのです。 11 よりによってこの私が、割礼やユダヤ教のしきたりが、救われるための必要条件だと教えていると言う者がいます。しかし、もしそうなら、私は迫害されることなどないはずではありませんか。そういった教えには、だれも腹を立てませんから。私が今なお迫害されているという事実こそ、私が今も、キリストの十字架を信じる信仰によってのみ救われると教えている証拠なのです。 12 割礼を受けさせて、あなたがたの肉体の一部を切り取りたいと思っている教師たちには、いっそのこと、自分自身をあなたがたから切り離してもらいたいものです。とにかく、手を引いてくれればよいと、私はそればかり願っています。
13 愛する皆さん。あなたがたは自由を手にしているのです。それは、悪を行うための自由ではなく、互いに愛し合い、仕え合うための自由です。 14 律法の全体は、「自分を愛するように他の人を愛しなさい」(レビ19・18)という一つの命令に要約されるからです。 15 もし互いに愛し合わず、いがみ合ったり、非難し合ったりしているなら、結局、共倒れになってしまいます。気をつけなさい。
聖霊に従いなさい
16 あなたがたに勧めます。聖霊の導きに従いなさい。聖霊は、どこへ行くべきか、何をなすべきか教えてくださいます。そうすれば、自分の肉の欲望のおもむくままに走ることはありません。 17 私たちの生まれながらの性質は、聖霊がお命じになることとは正反対の悪を好みます。一方、聖霊の導きに従って歩んでいる時に行いたくなる善は、生まれながらの肉の願望とは正反対のものです。内面のこの二つの力は、どちらも私たちを思いどおりに動かそうと、いつも格闘しています。そして私たちは、この二つの力の板ばさみになって、したいと思うことが自由にできない状態なのです。 18 しかし、本来聖霊に導かれているあなたがたは、もう自分を律法に従わせる必要はありません。
19 生まれながらの悪い性質、つまり肉に従った結果がもたらすものは明らかです。すなわち、汚れた思い、好色、 20 偶像礼拝、心霊術、憎しみ、争い、怒り、利己心、不平、あら捜し、排他主義とそこから出て来るまちがった教え、 21 ねたみ、人殺し、泥酔、遊興、そのような種類のものです。前にも言いましたが、もう一度言いましょう。そのような生活を続ける者は、一人として神の国を相続できません。
22 しかし、聖霊が生活を支配してくださる時、私たちのうちに、次のような実を結びます。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 23 柔和、自制です。そこには、律法に反するものは何もありません。 24 キリストに属する者は、生まれながらの自分が持つ肉の欲望を十字架につけてしまったのです。
25 もし私たちが聖霊の力を受けて生きているなら、すべてにわたって、その導きに従おうではありませんか。 26 そうすれば、互いにねたみ合ったり、いがみ合ったりすることはないでしょう。
6 愛する皆さん。もしだれかがあやまちを犯したら、聖霊によって歩むあなたがたは、やさしく謙遜な気持ちでその人を助け、正しい道に立ち返らせてあげなさい。また、自分自身も悪の道に落ち込まないように気をつけなさい。 2 互いの悩み、苦しみを共に負い、キリストの命令に従いなさい。 3 りっぱな人間である自分が、なにもそこまで身を低くする必要はないと思う人は、自分を偽っているのです。 4 ほんとうに最善を尽くしているかどうか、もう一度、自分を点検しなさい。そうすれば、ほかの人と比較することもなくなるでしょう。 5 人はみな、それぞれ自分の分をわきまえ、自分の分を果たすべきです。
失望せずに祝福を待つ
6 神のことばを教えてくれる人には、報酬を払い、援助しなさい。 7 思い違いをしてはいけません。神を無視することなどできません。人は種をまけば必ずその刈り取りもすることになるのです。 8 自分の欲望を満足させるために種をまく者は、その結果、霊的な滅びと死とを刈り取るはめになります。しかし、聖霊の良い種をまく者は、聖霊が与えてくださる永遠のいのちを刈り取ります。 9 正しい行いをすることに疲れ果ててしまわないようにしましょう。失望せず、あきらめずにいれば、やがて祝福を刈り取る日が来るからです。 10 ですから、機会あるたびに、だれに対しても、特に信仰を持つ人たちには親切にしましょう。
11 この最後のことばは、自筆で書いています。見てください、この大きな字を。 12 何のために、例の教師たち(使徒15・1)が、あなたがたに割礼を受けさせようと図るのかわかりますか。その理由はただ一つです。すなわち、そのようにして評判や人気を得て、迫害を免れたいからです。その迫害とは、キリストの十字架が唯一の救いの道であると認めるなら、必ず受けるものです。 13 そうした、割礼を主張する教師たちは、割礼以外の律法は守ろうとしません。それなのに、あなたがたに割礼を強要するのは、弟子をふやして誇るためなのです。 14 しかし私は、主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものなど何もありません。十字架によって、私は、この世のものすべてに対して興味を失ってしまいました。この世も、私に対する興味をすっかり失ってしまったのです。 15 割礼を受けているかいないかは、今は、全く問題ではありません。大切なのは、私たちがほんとうに別の新しい人に造り変えられているかどうか、ということです。 16 どうか、この原則に従って生きる人々、そして真に神のものとなった人々に、神のあわれみと平安がありますように。
17 もう二度と、こんな問題で論じ合わなくていいようにしたいものです。私の体には、イエスに敵対する者からむち打たれ、傷つけられた跡が残っていますが、それこそ、キリストの奴隷であることのしるしなのですから。
18 どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にありますように。アーメン。
パウロ
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