1-2 ところで、神と人間との間に交わされた最初の契約にも、礼拝についての規定があり、そのために建てられた神聖な幕屋がありました。この幕屋には二つの部屋があり、第一の部屋は聖所と呼ばれ、金の燭台と、特別なきよいパンとそれを載せる机が置いてありました。 聖所の奥に、幕で仕切られた第二の部屋があって、至聖所と呼ばれていました。 至聖所には、金の香壇と、全面を純金でおおわれた契約の箱がありました。その箱には、「十戒」を記した二枚の石の板、マナを入れた金のつぼ、芽を出したアロンの杖が納めてあったのです。 箱の上にはケルビム〔神の栄光の守護者たち〕と呼ばれる天使の像があって、黄金のふたをおおうように、大きな翼を広げていました。このふたは「恵みの座」と呼ばれます。しかし、これ以上くわしく述べる必要はないでしょう。

さて、これらが全部ととのえられた上で、祭司は第一の部屋に出入りして、務めを果たしました。 ただし、奥の第二の部屋には、大祭司だけが年に一度だけ、一人で入って行きました。そのとき彼は、血を携えて行かなければなりません。その血は、彼と民全体があやまって犯した罪をきよめるための供え物として、「恵みの座」にふりかけられました。 聖霊はこのことを通して、次のことを教えています。古い制度のもとで、第一の部屋と、それに代表される儀式があるかぎり、第二の部屋である至聖所に入る道はまだ閉ざされているということです。 幕屋は一つのたとえなのです。つまり、古い制度のもとでは、供え物といけにえが幾度ささげられても、それを携えて来る人たちの心まできよめることはできないのです。 10 古い制度は、もっとすぐれた新しい制度が用意されるまで課せられた、飲み食いや体の洗いきよめなどの体に関する規定にすぎません。

11 キリストは、すでに私たちのものとなった、すぐれた制度の大祭司として来られました。そして、人間やこの世の手を借りる必要のない、さらに偉大で完全な、天の幕屋に入られました。 12 しかも、ただ一度、血を携えて至聖所に入り、それを「恵みの座」にふりかけました。それはやぎや子牛の血ではなく、ご自分の血でした。キリストは自らそうすることによって、私たちの永遠の救いとなる贖い(身代わりによって罪を赦し、救い出すこと)を成し遂げられたのです。

心と生活を変える新しい制度

13 古い制度のもとで、雄牛ややぎの血、あるいは若い雌牛の灰が、人々の体を罪からきよめることができるとすれば、 14 ましてキリストの血は、どれほど確実に私たちの心と生活を変えることでしょう。キリストご自身のささげられた血は、古い規則に縛られる悩みから私たちを解放し、生ける神にお仕えしたい気持ちに駆り立てるのです。それは、一つの罪も欠点もない完全なお方が、聖霊の助けによってご自分を喜んで神にささげ、私たちの罪のために死んでくださったからです。

15 キリストは、この新しい契約を携えて来られました。それで、神に招かれる人はみな、約束されたすばらしい祝福にいつまでもあずかることができるのです。なぜなら、古い制度のもとで犯した罪の刑罰から救い出すために、キリストは死んでくださったからです。 16 たとえば、ある人が財産の相続人を指定し、遺言状を残して死んだとします。しかし、その被相続人の死が証明されなければ、だれもその財産に手をつけられません。 17 遺言は、被相続人の死後、初めて有効になるのです。その人が生きている間は、いくらそれが自分に関するものでも、どうすることもできません。 18 そういうわけで最初の契約も、効力を発揮するために、死の証拠として血がふりかけられなければなりませんでした。 19 モーセは、民にすべての律法を語ってから、水と共に子牛とやぎの血を取り、ヒソプの枝と紅色の羊毛とにつけて、律法の書と民全体にふりかけました。 20 そして、厳かに宣言しました。「この血は、神とあなたがたとの契約が効力を発したしるしだ。この契約は、神が私に命じて、あなたがたとの間に立てられたものだ。」 21 またモーセは、幕屋にも、礼拝用のすべての器具にも、同じように血をふりかけました。 22 古い契約のもとで、すべてのものは、血をふりかけることによってきよめられたと言えます。血を流すことなしに、罪の赦しはないのです。

23 それで、天上のものにかたどって造られた地上の幕屋とその中のすべてのものは、このように動物の血をふりかけることによって、きよめられる必要がありました。しかし、天にある本物の幕屋は、はるかにすぐれたいけにえによってきよめられなければなりませんでした。 24 キリストは、天にあるものの模型にすぎない、地上の神殿に入られたのではありません。天そのものに入られ、今は、私たちの友として神の前に出られたのです。 25 しかも、地上の大祭司が毎年きまって動物の血を至聖所にささげたように、ご自分を何度もささげるようなことはなさいませんでした。 26 もしそうであれば、世の初めから、何度も死ななければならなかったでしょう。キリストは、この時代の終わりに、死によって罪の力を永遠に無効とするために、ただ一度おいでになったのです。 27 人間には、一度だけ死んで、その後さばきを受けることが定められているように、 28 キリストも、多くの人の罪のためにご自身をささげて、一度だけ死なれました。そして、もう一度おいでになりますが、今度は罪を取り除くためではありません。その時は、彼を待ち望んでいるすべての人の救いを完成させるために来られるのです。

新しいいのちに至る道

10 律法による古い制度は、やがてキリストが与えてくださるもののすばらしさを、かすかに味わわせてくれるにすぎません。いけにえは年ごとに何度もくり返されましたが、それをささげた人たちを救えませんでした。 もし救う力があるのなら、一度だけのいけにえで礼拝する人々はみなきよめられ、その罪意識も消えてしまったことでしょう。 ところが、年ごとのいけにえは、かえって不従順と罪とを思い起こさせました。 雄牛とやぎの血では、罪を取り除くことはできないのです。

そのためキリストは、この世に来られて、こう言われるのです。「神よ。雄牛ややぎの血は、あなたの心にかないません。それで、わたしに肉の体を与え、祭壇の上のいけにえとなさいました。 罪のためのささげ物として、あなたの前で殺されて焼かれる動物のいけにえでは、あなたは満足されませんでした。 そこでわたしは、『まさに聖書に記されてあるとおり、わたしはあなたの御心を行い、いのちを捨てるために来ました』と申し上げたのです。」詩篇40・6-8 すなわちキリストは、「古い制度が要求するさまざまのいけにえやささげ物では、神は満足されない」と語ったあとで、 「わたしはいのちを捨てるために来ました」と言われたのです。キリストは、はるかにすぐれた制度を打ち立てるために、最初の制度を廃止されました。 10 この新しい計画にそって、キリストはただ一度死なれ、それによって私たちは罪を赦され、きよくされているのです。

11 古い契約のもとでは、祭司たちは毎日、祭壇にいけにえをささげますが、それらは決して罪を取り除くことができません。 12 しかしキリストは、いつまでも有効な、ただ一つのいけにえとして、私たちの罪のためにご自分を神にささげ、そのあと神の右の座について、 13 敵が足の下に踏みつけられるその日を待っておられます。 14 キリストは、この一度かぎりの行為によって、ご自分がきよめる人々をみな、永遠に完全なものとしてくださったのです。

15 聖霊も同じ証言をされます。 16 「イスラエル人たちは最初の契約を破ったが、わたしが新たに彼らと結ぼうとしている契約はこれである。わたしは、常にわたしの意思を知らせるために、律法を彼らの心に書き記す。そして、律法を彼らの思いの中に据えるので、彼らは喜んでこれに従うようになる。」エレミヤ31・33 17 さらに聖霊は、こうも言われます。「わたしは、二度と彼らの罪と不法を思い出さない。」エレミヤ31・34 18 このように罪が永久に赦され、また忘れ去られてしまうなら、罪を取り除くためのいけにえを、これ以上ささげる必要はありません。

19 ですから、愛する皆さん。いま私たちは、イエスが血を流されたことによって、神のおられる至聖所に堂々と入って行けるのです。 20 この新しいいのちに至る道は、キリストがご自分の体という幕を引き裂くことによって開いてくださいました。私たちはこの道を通って、きよい神の前に進み出ることができるのです。 21 また、このキリストという偉大な大祭司が神の家を支配しておられるのですから、 22 私たちは、まちがいなく受け入れられるという確信と真実な心をもって、神の御前にまっすぐ進み出ようではありませんか。すでに、私たちの心はキリストの血を注がれてきよめられ、体はきよい水で洗われているのです。 23 いま私たちは、神が約束してくださった救いを、希望をもって待ち望むことができ、救いが確実であることを疑いなく語ることができます。神のことばは必ず実現します。

忍耐強く良いことをする

24 神が成し遂げてくださったすべてのことにこたえて、私たちも互いに愛し合い、善行に励もうではありませんか。 25 集会から離れたりする人たちにならってはいけません。主が再びおいでになる日は、もう間近なのですから、互いに励まし合っていきましょう。

26 もし罪の赦しの真理を知ってから、救い主を拒否して、罪を犯し続ける人がいるとしたら、その人はキリストの死によっても赦されません。もはや、その罪を消す方法はどこにもないのです。 27 その人には、敵対する者を一人残らず焼き尽くす、神の激しい怒りと恐ろしい刑罰が待っているだけです。 28 モーセの律法に従わなかった者たちは、その罪に対する二、三人の証言が得られれば、死刑に処せられました。 29 それならなおさら、神の御子を踏みつけ、罪をきよめるキリストの血を汚れたものとし、神のあわれみを人々にもたらす聖霊を拒絶する者に、どんなに恐ろしい刑罰が下るか、よく考えてみなさい。 30 私たちは、「正義はわたしのものである。復讐はわたしがする」申命32・35、また、「主がその民をさばかれる」申命32・36と言われた方をよく知っています。 31 生ける神の手の中に陥ることは、なんと恐ろしいことでしょう。

32 あなたがたは、初めてキリストを知った時の祝福された日々を、いつまでも忘れないようにしなさい。また、死ぬほどの苦しみに会いながらも、主と共に戦い抜いてきたことを、いつも心にとめていなさい。 33 時には、あなたがた自身があざけられたり、打ちのめされたりし、また、同じ苦しみを味わっている人たちの友となったりしました。 34 牢獄に捕らわれの身となった人たちと共に苦しみ、また全財産を奪われても、喜んでそれに耐え抜きました。それはあなたがたが、もっとすぐれた、永遠に残るものを持っていることを知っていたからです。 35 このようなすばらしい祝福が待っているのですから、どんなことがあっても、主を信じ続けなさい。やがて主から受ける報いを思いなさい。 36 神の約束されたものをいただきたいと願うなら、忍耐しなければなりません。 37 キリストが再び来られる日が、これ以上遅れることはありません。 38 神の前に義と認められる人たちは、信仰によって生きるのです。しりごみするような人を、神は喜ばれません。 39 私たちは、神に背を向けて滅びる者ではなく、信じていのちを得る者なのです。

信仰のすばらしさ

11 信仰とはいったい何でしょう。それは、望んでいることが必ずかなえられるという確信です。また、何が起こるかわからない先にも、その望んでいることが必ず待っていると信じて疑わないことです。 神を信じた昔の人たちは、この信仰によって賞賛されました。 信仰によって私たちは、この世界が神のことばによって造られ、しかも、それらが無から創造されたことを知るのです。

アベルが神の命令に従い、カインよりはるかに神に喜ばれる供え物をささげたのは、信仰があったからです。アベルの供え物が喜ばれたのは、神が彼の義(正しさ)を受け入れてくださったことの証明です。アベルははるか昔に死にましたが、今なお彼の信仰は大切なことを語っています。 エノクも神に信頼したので、神は彼に死を経験させず、天に引き上げてくださいました。神が連れ去られたので、彼は突然、姿を消したのです。神は、ご自分がどんなにエノクのことを喜んでいるか、前々から告げておられました。 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神のもとに来ようとする人はだれでも、神の存在と、熱心に神を求めれば神は必ず報いてくださることを、信じなければなりません。 ノアも、神を信じた人です。神から警告を受けた時、洪水のきざしなど何一つなかったにもかかわらず、彼はそのことばを信じました。そして、すぐに箱舟の建造に取りかかり、家族を洪水から救いました。神を信じたノアの態度は、当時の人たちの罪や不信仰と比べて、ひときわ輝いています。この信仰のゆえに、ノアは神に受け入れられたのです。

アブラハムも、神を信じました。神に、生まれ故郷を離れて新しく与える地に向かうようにと指示された時、彼はそのことばに従い、行く先も知らずに出て行ったのです。 そして、約束の地カナンに入ったあとも、外国からの旅行者のように天幕(テント)生活を送りました。神から同じ約束を受けた息子のイサクと孫のヤコブも、その地で同様に天幕生活を送りました。 10 アブラハムがこうした生活に耐えられたのは、揺るがない土台に建つ天の都に、神が必ず連れて行ってくださると確信し、待ち望んでいたからです。その天の都を設計し、建設されたのは神ご自身です。 11 アブラハムの妻サラも、信仰によって、すでに子を産む年齢を過ぎていたにもかかわらず、母親になることができました。神の約束は必ず実現すると信じたからです。 12 このようにして、年を取って全く希望がないと思われていたアブラハムから、天の星や海辺の砂のように、数えきれないほどの子孫が生まれたのです。

13 信仰に生きたこの人たちは、神に約束されたものを手にしてから死んだのではありません。しかし彼らは、約束のものが待っているのを望み見て、心から喜びました。この地上がほんとうの故郷ではなく、自分がほんのつかの間、滞在する旅人にすぎないことを自覚していたのです。 14 そう認めた時、彼らは心から、天にある故郷を慕い求めました。 15 もし彼らに、この世の魅力ある生活に戻る気があったなら、いつでも戻れました。 16 しかし彼らは、それには目もくれず、神が用意された天の都を一心に見つめていました。それで神は、彼らの神と呼ばれることを誇りとなさったのです。

17 神がアブラハムの信仰を試された時にも、アブラハムは最後まで神とその約束とを信じました。彼はひとり息子のイサクを神にささげ、祭壇の上で殺そうとまでしました。 18 「イサクを通して一つの国民となる子孫を与える」という神の約束があったにもかかわらず、彼は少しもためらいませんでした。 19 たとえわが子が死んでも、神はもう一度生き返らせてくださると信じていたのです。まさに、そのとおりのことが起こりました。イサクは確かに死ぬ運命にあったのに、生きたまま、再びアブラハムの手に戻されたのです。

20 イサクが二人の息子ヤコブとエサウに、神が将来、必ず祝福を与えてくださると確信したのも、信仰によるものでした。 21 年老いて、死を目前にしたヤコブは、信仰によって、杖にすがりながら、神に祈りをささげました。そして息子ヨセフの二人の子を、一人一人祝福しました。 22 また、死期が迫ったヨセフは、信仰によって、神がイスラエルの子孫をエジプトから脱出させてくださることを語り、自分の骨を携えて行くよう約束させました。

23 モーセの両親の行為も信仰によるものでした。すぐれた子どもが授けられたことを知った彼らは、神がエジプト王の手から、その子を救い出してくださると信じました。それで、子どもを殺せという王の命令にもひるまず、その子を三か月のあいだ隠しておいたのです。 24-25 信仰によって、モーセは成人した時、王子として扱われることを拒みました。むなしい罪の快楽にふけるよりは、神の民と共に苦しむ道を選んだのです。 26 彼はエジプト全土の宝をわがものにすることよりも、やがて来ると約束されていたキリスト(ギリシャ語で、救い主)のために苦しむほうが、はるかにすぐれていると考えました。その目は、神からの大きな報いに注がれていたのです。 27 神を信じていた彼は、王の怒りを恐れず、エジプトの地をあとにしました。わき目もふらず、まるで、いっしょに歩まれる神の姿を見ているかのように前進しました。 28 信仰によって、モーセは神の指示どおり、小羊の血を家々の門柱に注ぎかけました。こうして、イスラエルの家々の長子(長男)は、神から遣わされた恐ろしい死の使いから守られました。しかしエジプト人の長子は、この死の使いによって全滅したのです。 29 イスラエル人は神を信じて、まるでかわいた陸地を歩むように、まっすぐ紅海を渡りました。しかし追跡して来たエジプト人は、同じように渡ろうとして、一人残らずおぼれ死んだのです。

30 信仰によって、イスラエルの民が、神の命令どおり七日間エリコの町の城壁を回ると、城壁はくずれ落ちました。 31 売春婦ラハブは、神とその力とを信じていたので、イスラエルの偵察隊を自分の家にかくまいました。その信仰によって、彼女は、神への服従を拒んだエリコの住民が滅ぼされた時に救い出されたのです。

より良い報いを得るために

32 これ以上、何をつけ加える必要があるでしょう。ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、そのほか多くの預言者の信仰について話し始めたら、いくら時間があっても足りません。 33 彼らは信仰によって、戦いに勝ち、国々を征服し、正義を行い、神が約束されたものを受け取ることができました。ライオンの穴に投げ込まれても危害を受けず、 34 燃えさかる炉に投げ込まれても、やけど一つしませんでした。ある者は、危うく切り殺されるところを救われました。ある者は病弱の身であったのに、健康な体に変えられました。ある者は戦いでめざましい力を与えられ、攻め寄せる敵の軍隊をことごとく退け、大勝利を収めました。 35 信仰によって、愛する者を死者の中から生き返らせていただいた女たちもいました。

また、さらにすばらしいいのちに復活するために、釈放など願わず、むち打ちや死刑に甘んじた者たちもいました。彼らは神を捨てて自由の身となるより、むしろ死を望んだのです。 36 またある者たちは、あざけられ、むち打たれ、さらに鎖につながれ、投獄されました。 37-38 石を投げつけられ、のこぎりで引かれて死んだ者もいました。また、羊ややぎの皮を着て荒野や山をさまよい、ほら穴に隠れた者もいます。彼らは飢えと病気に悩まされ、苦しめられ、ひどい仕打ちを受けました。それは彼らが正しい生き方を追求したからです。 39 彼らの信仰は神から賞賛されるほどでしたが、だれ一人、神が約束されたものを全部、手に入れたわけではありません。 40 彼らが待ち望んでいたのは、もっとすぐれた報いであり、神もやがてそれをお与えになるつもりでした。それは、私たちのために用意されている報いと同じです。